日々の仕事に追われていると、就寝前に聴く音楽はことさら心にしみ込み、精神面での滋養を与えてくれるものと思われます。
寝床に入って消灯してから聴いているのですが、CDをかけているBOSEのAWMは演奏が終わって一定時間が経つと自動的にスタンバイモードに切り替わることもあり、聴きながら安心して眠ってしまうこともしばしばあります。何とも贅沢な睡眠のとり方だなと思っているところです。
今、そうやってかけているCDは、東京クヮルテットによるベートーヴェンの弦楽四重奏曲です。
この弦楽四重奏曲全集は、東京クヮルテットの第二期メンバーによるものであり、正に脂の乗り切った絶妙で美しい響きに満たされた素晴らしい演奏が繰り広げられていきます。
因みにメンバーは以下の通りです。
このうち、磯村さんと原田さんは創設メンバーでありました。
このCDは、東京クヮルテット結成20周年を記念して世界各地で行われたベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲演奏会に併行してセッション録音されたもので、ピンカス・ズッカーマンと共演した弦楽五重奏曲やピアノ・ソナタ第9番から編曲されたヘ長調のHess34も含まれています。
大フーガ変ロ長調がおさめられていることはいうまでもありません。
ところで、東京クヮルテットは、昨年6月、第二ヴァイオリンの池田さんとヴィオラの磯村さんが退団を表明したことから、誠に残念ながら解散と相成りました。
ベートーヴェンはもとより、ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ブラームスから、ヴェルク、バルトーク、ウェーベルンに至るまで、彼らの演奏を聴いて心を満たされてきた私としては誠に残念な限りです。
齋藤秀雄の門下生であり、その後、ジュリアード音楽学校に学んだ原田幸一郎・名倉淑子・磯村和英・原田禎夫によって創設された東京クヮルテット。
1969年から2013年まで40年余りの長き(創設メンバーによる活動は1974年まで)にわたって、世界を魅了し続けた団体でした。
齋藤秀雄さんは、ローゼンシュトックの指揮を目の当たりにして慧眼し、体系的かつ合理的な音楽教育を実践した方で、とりわけ指揮者の育成においては多大なる功績を残しました。
岩城宏之・若杉弘・小澤征爾・秋山和慶・山本直純・井上道義・飯森泰次朗など、その門下から羽ばたいた指揮者は、逸れこそ枚挙のいとまもありません。
一方、ご自身がチェロの演奏者であったことから、弦楽器方面でも多くの演奏家を育てています。
厳本真理・前橋汀子といった名前がすぐに思い浮かびますし、創設期の東京クヮルテットのメンバーは、正に齋藤メソッドの申し子ともいえるのではないでしょうか。
以前、日経の夕刊に掲載されたチェリスト・原田禎夫さんのインタビューによると、齋藤秀雄先生は誠に厳しい方だったようで、「一度も褒められたことはなく、どんなに頑張っても最後まで認めてくれなかった」「あれは今でいう一種のいじめやパワハラではないか」と仰っていました。
しかし、齋藤秀雄さんの別のインタビュー記事を読むと、リズム感やアクセントといった曲の表情を左右する要素について、「わからない奴はどう教えてもわからない。ほらそこにアクセントがあるだろうといってもそれを感じ取ることができないのだから仕方がない」「そういう相手にも、自分自身で駄目だと気付くまでは一応教える」といった意味のことを仰っていましたから、いうまでもなく原田禎夫さんには大きな期待を寄せていたために先生も厳しい態度で臨んだということでしょう。
東京クヮルテットの演奏を聴いていると、単に「技術的に優れている」などといった表面的な話ではなく、もっと心の奥深いところからの共鳴を呼ぶ力を感じます。一つ一つの楽器の奏でる音色や響き、そして精緻なアンサンブルの中で繰り広げられる絶妙なデュナーミクとアゴーギク。
このベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲ボックスCDは、そうした全ての面における完璧な音楽表現が結実した、正に畢生の「名演」というべきものでしょう。
それが、3000円を切る価格で購入できるとは、何度も繰り返しますが、誠に良い時代になったものです。
それにしても、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲。
誠に恐るべき音楽ではないかと改めて痛感しました。
そのあまりの完成度の高さと深い世界観に打ちのめさたゆえか、シューマンやドヴォルザークなどの少数の例外を除いて、この分野でのめぼしい作品は長きにわたって生み出されてきませんでした。あのブラームスですら、弦楽四重奏曲は二曲しか作っていないのです。
しかし、このベートーヴェンの弦楽四重奏曲集を聴いていると、才能があればあるほどこれらを超える世界を構築することの絶望的な難しさに直面してしまうのではなかろうかと、多くの作曲家たちのそうした想いをしみじみ感得してしまいます。
殊に、それまでは通奏低音の一部としてしかとらえられてこなかったチェロに光を当て、主要なテーマを演奏させた先見性には正しく脱帽です。チェロが雄渾な世界を描き出すことによって、曲そのものに分厚く重層的な響きを与えることができた、ともいえるのかもしれません。
尤も、ベートーヴェンの時代には、チェロのエキスパートはそれほど存在しなかったそうですから、周囲に与えた困惑は如何ばかりかと忖度してしまいますが。
中でもラズモフスキーから始まる後期の作品は、とても四本の弦楽器のみで奏でられているとは思えないほどの世界であり、あたかも交響曲を聴いているかのような錯覚にさえ襲われるのですから(ということで、第7番以降の曲は寝しなに聴くと思わず曲にのめりこみ却って目がさえてしまいますから、その点では私の場合、少し誤用でありましたね)。
交響曲、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、弦楽四重奏曲など、ベートーヴェンが出現する以前と以後とでは、明らかにその表現される世界観が大きく異なっています。
音楽というものを形而上の表現として解き放ち、限りなく深い世界を構築していく道を切り拓いた。
ベートーヴェンをして「楽聖」という尊称がありますけれども、これは決して過大でもなんでもない。この四重奏曲を聴きながら、改めてそんな感慨にも耽ったものでした。
年度末を迎え、慌しい日が続きます。
そんな中、昨日はあいにくの荒天でしたので、部屋にこもって家事や仕事をしながら音楽を聴いていました。
何ゆえにそのような気分になったのか、然とはわからないのですが、久しぶりにベートーヴェンの交響曲第5番を聴きたくなり、最初はフルトヴェングラー&ベルリン・フィルのCDをかけました。
これを聴き終えたあと、ちょっと興味がわいてきて、カルロス・クライバー&ウィーン・フィル、オットー・クレンペラー&フィルハーモニア管、チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルと、次々に同じ曲を聴き続ける仕儀となったのです。
ベートーヴェンの交響曲第5番は、なんといっても冒頭のいわゆる「運命の動機」が強烈な印象を私たちに与えます。
冒頭から5小節目までがそれに当たりますね。二つのフェルマータが大変大きな意味を持っています。
この第4小節目、タイで結ばれた先頭の二分音符ですが、これは、最初の手書きスコアでは無かったのだそうです。つまり、三小節目以降は第一・二小節と同じ音形で最初は構想されたということでしょう。
それをベートーヴェンは後から敢えて第4小節の二分音符を書き加えている。
このことに関して、芥川也寸志さんは、著書の「音楽の基礎」の中で次のように触れています。
ベートーヴェンはあとからこの一小節を書き入れたのであるが、ベートーヴェンの解釈にかけては右に出るものなしといわれた指揮者ワインガルトナーは、これを不可解といい、それに対して、やはりベートーヴェンの権威であった指揮者フルトヴェングラーは、「ワインガルトナーともあろう音楽家が!」と嘆いたあと、「ベートーヴェンが一小節を書き入れたのは、それだけ長くのばさなければならぬと思ったからだ」といっている。この両巨匠の言葉の裏に、フェルマータに対する感じ方の相違があるように見える。
フルトヴェングラーの言葉はあまりにも当たり前すぎるような気がして思わず失笑してしまいました(ワインガルトナーにしてもそんなことは言わずもがなの話と思うことでしょう)が、「フェルマータに対する感じ方の相違」という観点からすれば頷かざるを得ません。
私事ですが、私がこの曲を最初に聴いたのは幼稚園の頃で、父の所持していたSPレコードからでした。
そのレコードはワインガルトナーの指揮によるもので(オケは残念ながら記憶にありません)、そのときのこの冒頭の印象は今でも強烈に記憶に残っています。2小節目のフェルマータから3小節目の八分休符を挟んでFの音が出てくるまでの間に大きな区切りのようなものを感じたのでした。
つまり、G・G・G・E♭とF・F・F・Dは、それぞれ別々の四つの音として認識したのです。
その印象はかなり長い間変わることはなかった(というのも、子供心にこの曲の重さを負担に感じ、あまり積極的に聴かなくなったことが大きな理由)のですが、社会人になってから聴いたジュリーニ&ウィーン・フィルの演奏によって、それは大きく覆されました。
今となっては当たり前のことなのですが、この5小節は緊張感を以て連続する一つの主題であることに改めて気づかされたのです。
3小節目冒頭の八分休符はあくまでも八分休符なのであり、2小節目のフェルマータのあと、直ちにGやFの八分音符と同様の長さと緊張感の中で表現されるべきものであった…。
その後、クレンペラー&フィルハーモニア管による1960年のライブ演奏CDを聴き、いよいよその感を強くしました。クレンペラーの演奏は、非常に印象的で大きなルバートが随所に現れますが、この冒頭の5小節の恐るべき緊張感は筆舌に尽くしがたいものがあります。
さらにカルロス・クライバー&ウィーン・フィルのCDなどを聴くに及んで、幼少の頃から持ち続けたこの曲に対する己の一方的な印象は大きく変貌していったのでした。
フェルマータが、その用いられる場所や場面によってその表すべき意味を変えることは、多少なりとも音楽に親しみ楽譜を読んだり演奏をしたりしている人にとっては自明のことと思われます。
例えば、バッハのコラールなどに用いられるそれは演奏の中における自然な流れの息継ぎを示していますので、この音を伸ばすようなことを普通はしません(カラヤンが指揮したマタイ受難曲ではこのフェルマータを伸ばしているので、私は大変不自然に感じました)。
一方、曲の最後に用いられるフェルマータは、静寂の世界に帰っていくための経過句であることから、演奏者は、演奏会場や聴衆の状況などを感じ取って、それにふさわしい表現を提示しようと試みるわけです。殊にディミヌエンドを伴った最後の音でのフェルマータは、奏でられている音と静寂との間が溶け合って一体化する時間を提供しようと意図されたものともいえるのではないでしょうか(演奏会におけるフライングブラボーや拍手を私が毛嫌いする理由もこの辺りにあります)。
そのように考えてくると、ベートーヴェンが何故に2小節目と5小節目の二分音符にフェルマータを付けているのか、また、敢えて4小節目にタイで結んだ二分音符を後から付け加えたのかも分かるような気がします。
幼いころに聴いたワインガルトナーの演奏では、第3小節冒頭の八分休符にまでフェルマータがついているのではないか、という印象を与えられました。
もちろんそれが悪いわけではありません。八休符にフェルマータがついているのではなく、2小節目のフェルマータの後に区切りを入れているわけで、そうした演奏もまた十分に説得力を持つものだと思うからです。
チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルの演奏も、そうした方向における最上のものでしょう。
このように考えてくると、作曲家が、楽譜という極めて伝達性能に劣る記録手法を用いて、如何に己の意図する創造の世界を伝えることが困難であるかを痛感させられます。
三木稔作曲のレクイエムの第二楽章は、7拍と5拍を中心に書かれています。
音楽の専門教育を受けてこなかった私たちのような素人は、かなり面食らいます。
小・中学校までの音楽の授業に出てくる拍子は、4分の2、4分の3、4分の4、8分の6辺りまでなのですから、これも蓋し当然のことでしょう。
仮に7拍を4拍と3拍に分けて小節線を書き入れれば、その楽譜を見た演奏者は、その小節線を必ず意識します。
指揮者のタクトも、3拍の小節の冒頭を示すように動くわけです。
従って作曲者が7つの音を一つの表現単位として示すためには、7拍で区切る必然性があるのです。そうでなければ、その思いは伝わりません。
「お前の道は 海に近い 真っ黒な岩壁の上を走っている」
という歌詞の持つ緊迫感を表現するためには、こうした記譜とならざるを得ないのです。
同じような例は、ヴェルディのレクイエムのリベラメやラフマニノフの晩祷などにも見られますね。
作品を具体的な形(響き)にするためには、全てをその表現者にゆだねなければならない。作曲者のジレンマはそのあたりにもあるのでしょうが、演奏はしばしば作曲者の意図する以上の世界を描き出すことがあります。
それもまた、作曲という創造行為の大いなる喜びの一つなのでありましょう。
クラウディオ・アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団によるブルックナーの交響曲第9番(2013年8月のライブ演奏)CDが発売されました。
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クラウディオ・アバドさんは今年の1月に逝去されました。
昨年の10月に予定されていた来日も、健康上の理由からキャンセルされてしまい、東日本大震災の被災地慰問という目的もあったことから、ご本人も大変残念がっておられたとのこと。
結果として、このルツェルン音楽祭における演奏が、アバドさんの白鳥の歌となったわけです。
体調の面でも相当に厳しいものがあったと思われるのですが、紡ぎだされる響きはあくまでも透明で美しく、生に向けての力強ささえ感じさせます。
ルツェルン祝祭管弦楽団は、アバドさんが正に手塩にかけて育て上げたともいえるオーケストラで、この演奏を聴いていると、アバドさんとメンバーの間の極めて強固な紐帯に想いを馳せてしまいました。
特に印象深かったのは木管楽器の美しさです。
ブルックナーの曲というと、金管楽器の分厚い和音や中音域の音の充実感が真っ先に思い起こされますが、随所で奏でられる木管楽器の旋律は誠に心にしみいるものがあります。
第1楽章の503小節。コーダになだれ込む直前のホルンのソロ。
この部分に指定してあるディミヌエンドをアバドさんは非常に繊細に表現しておりました。
それはそのあとに続く、木管楽器の悲しいまでに美しい経過句を際立たせるための心遣いなのでしょうか。この経過句の木管の和音の素晴らしさは特筆ものと思います。
ブルックナーの自筆譜は、速度や強弱など曲の表情に関する記述など大変几帳面に記載されています。
その中から、ブルックナーの意図した音の響きを紡ぎだせるかどうかは、指揮者の感性に大いに左右されるところでしょう。
この曲に余計な味付けはいらない、楽譜に示された音を一音一音丁寧に表現し響きを作っていくだけでいいのだ、そんなふうにアバドさんは考えたのではないか、そう思わせるような透徹した演奏です。
ヴァントやチェリビダッケの持つ、ある意味での「体臭」のようなものはどこにもなく、透明な音の響きがそこにあるだけ、という気もしています。
そこには純粋にブルックナーの音楽だけが響いており、指揮者やオーケストラの存在さえ忘れてしまいそうになる。
その意味では、物足りないと感ずる人もおられるかもしれません。
事実、第3楽章155小節の弦による和音などは、シューリヒト&ウィーン・フィルのような馥郁たる響きには届いていないようにも思われました。
しかし、この演奏は間違いなくブルックナーの交響曲の一つの表現の極地であり、多くのリスナーに語りかけ続ける力を有しているものと信じます。
第3楽章225小節の「パルシファルのこだま」からコーダにかけ、237小節のホルンの旋律(交響曲第7番冒頭の旋律の回顧)が響き渡る中、何ともいえない平安を感じさせつつ締めくくられ、このところ湿りがちであった私の心に温かな光を投げかけてくれたのでした。